<イメージフォーラムフェスティバル>の二日目でした。
Jプログラムのレクチャーの最中に、ポケットに入れていたケイタイがぶるぶるやり
はじめて、いつまでたっても鳴り止まず、しょうことなしに上映中にメールを打った
ら相原信洋が亡くなった(!)という報せでした…。
インドネシアのバリ島のホテルで吐瀉物を咽喉につまらせたということでした。
しかも学生さんを連れて(たぶん)アニメーションのルーツの「ジャワの影絵」を観
に行っていたんでしょう。Jプログラムは映画のルーツを辿るテーマだったので、当
然のことながら「ジャワの影絵」も上映した直後ぐらいだったんです。
世界中何処へ行ってもその土地に溶け込めるキャラクターの相原信洋が、真逆死ぬわ
けがないと上演が終って、あちこち電話したけど、どうやら事実らしい…。
愕然としました。
人間は死亡率100パーセントの生きものですが、相原信洋は死といちばん遠いとこ
ろに存在する宇宙人のような生物でした…。
Kプログラムのステージで松本俊夫さんとトークのラストに、観客に訃報を伝えて
ただし、彼がいたら不特定多数の観客を前にして儀礼的黙祷はきっと拒絶するだろう
から、知っている人たちだけ心の中で黙祷をして下さいね。というほかありませんで
した…。
<イメージフォーラムフェスティバル>は今年で25回目で、それ以前の<実験映画
祭>や<アンダーグラウンド回顧展>など年に一回のフェスティバルにかんしては一
度も新作を休んでいない作家。
今回もシリーズで制作している田名網敬一さんとの新作『DREAMS』を完成して旅
立ったそうです。
今日がその上映日で、田名網さんによると今回初めてデジタルで制作したそうです。
色彩の透明感が素晴らしく、その鮮やかさを誇っていい仕上がりでした。それをスク
リーンで観ずに「じゃあ行ってきます」と田名網さんに手を振って旅立ったんだそう
です。
新作が映写された大画面を観ながら、きっとうしろのドアからいつものように「相原
ですが〜」と入ってくるんだろうな、という思いが10秒毎に去来しました。
奇しくも会場近くの十二社にあったアニメの梁山泊「スタジオ・ゼロ」でアニメー
ターをやっていた彼を実験映画の世界へ引き込んだのはぼくなんですね。
「スタジオ・ゼロ」の鈴木伸一社長がスポンサーに見せる試写室で自作の8ミリを社
員たちに映写したことから、『おそ松くん』などを描いていたアニメーター相原信洋
は、「8ミリでもいいんだ」と自作を撮りはじめたそうです。
当時「平凡パンチ」が特集したアングラ映画のグラビア頁で、ぼくが書いた文章を見
て、新橋・烏森口にあった「映画評論」社の営業部の一角にあった「ジャパン・フィ
ルムメーカーズコーポラティブ」へ映写機、スクリーン、テープレコーダーを担いで
「相原ですが〜作品を見て下さい」と入ってきたときが最初でした。
あれは1970年の春だったかなぁ〜。
テレビアニメのはしりだった「スタジオ・ゼロ」のアニメーターは、当時ほとんど寝
る間もないほど徹夜徹夜で納期に間に合わせていた時代なので、自分の作品など描い
ている時間を捻出できる筈がないにもかかわらず、相原信洋は月に2作のペースで8
ミリの短編を持ち込むようになったんです。
やがて「スタジオゼロ」が解散した(のかなぁ)渋谷の天井桟敷で開催していた「ア
ンダーグラウンド・シネマテーク」に足しげく通うようになり、四谷三丁目時代の
「イメージフォーラムシネマテーク」では少年時代の記憶をテーマに16ミリの最初の
傑作『やまかがし』を手がけ、商業アニメの世界とは次第に距離を置くようになって
きたんですね…。
彼は商業アニメの世界では特殊効果に相当するやっかいなシーンを手がけるアニメー
ターとして知られていたのにもかかわらず、なぜ非効率きわまりない実験映画へ傾斜
したのか、いつかきっちり聞いておかなければと思いつつ、会えば呑もうということ
になり、当然のように日活映画の話になり、酔って主題歌を唄いまくって聞き漏らし
てしまう。
相原さん、そう遠くない将来、そちらに会いに行くので、その時は是非とも真相を聞
かせて下さいね。
新作、田名網さんと相原さんの作風が互いに溶解=融合していて、コラボレーション
が新しいがステップに到達していたね。よかったよ…。
chibicoo
ちびくう用メモ
May 5, 2011
ブクマ:かわごちコラム日記編